東日本大震災からまもなく10年たった今も当時の被災者や津波の恐ろしさや命の尊さを訴えたいと活動されてきた『奇跡の子』てっちゃん【只野哲也】さんがザ・ノンフィクションに出演されます。
津波から生還した大川小“奇跡の子”と言われこれまでも沢山の取材をされてきたてっちゃんが「もう取材はこれで…」と言わなければならなかった理由とは何だったのでしょうか。
東日本大震災から奇跡の子として21歳になった哲也さんは『目標を失い大学を中退』とありましたがなぜ大人になったてつやさんは目標を失ってしまったのかも気がかりです。今回はその気がかりと大川小裁判の現在を調べてみました。
目次
てっちゃん【只野哲也】が目標は警察官だった?
’11年3月11日の東日本大震災当時小学校5年生だったてっちゃんこと只野哲也さんは現在21歳です。
身長175cm・体重95kgと体格がいいのは哲也さんは小学校1年生の頃から柔道をされていたそうです。
被災から石巻市内に引っ越され中学に進学されその後『石巻工業高校』に進学され柔道部の主将となり100kg階級にて石巻支部総体で優勝され、66回宮城県高等学校総合体育大会ではベスト16になるほどの実力者です。
その後は東北学院大学に進学され将来は緊急時や災害で人を助ける仕事に就きたいと夢を語っていられました。
東北学院大学はスポーツでも有名な大学です。
地域密着で仕事したいので警察か消防の仕事につきたかったそうですが、火災時に閉所に突入する事を考えると体格的に不向きと考え柔道(二段)を生かせる警察官を志望されていました。
てっちゃん【只野哲也】が目標を失った理由は?なぜ?警察官ではなくなったの?
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宮城県石巻市の大川小学校では当時大津波が襲った時間に学校にいた児童は78人でそのうちの74人が亡くなられたり行方不明になられたそうです。
生存された児童は4人だったそうです。
当時祖父、祖母、父、母、妹さんと暮らされており、お母さんは体が弱く寝込んでいる事が多かったらしく哲也さんは祖父と祖母に甘えていたそうです。
震災で哲也さんは祖父、母、9歳の妹を亡くされたそうです。
震災で3人が亡くなったけど、僕には何があったのか理解できないでいました。当時は、毎週毎週、誰かの火葬があったので麻痺していたんです。亡くなった実感がなかった。いちいち悲しんでいたら身がもたなかったんです」
奇跡の子として取材をされながらも当時はパニック状態だったのかもしれません。
あまりのショックに悲しさやつらさで高校生までは心に蓋をしてしまったようです。
時間が経てば経つほど辛くなっていったそうです。
言うのも辛い時期があり気を使われるのも嫌だったので被災をして家族を亡くした事を知られないようにしていた時期もあったそうです。
漠然と“身体を張って人を助けたいので警察官になりたいという思いと、これまでは将来の事をちゃんと考える時間もなく懸命に生きてきて震災のことから離れて地元を出たいという思いもあるようです。
独り暮らしの経験もないので県外にも行ってみたい気持ちとおばあちゃんが元気なうちはそばにいたいという思い。
けれど、このままだと震災に振り回されそうになる
命からがら必死に津波から逃れ、当時の恐怖は計り知れないものでしょう。
家族を亡くした中、『奇跡の子』として小学生ながらに生き残れたことに感謝をしながら取材を受け入れきっと自分の本当の感情に蓋をしながら懸命に前向きにここまでやってこられたのでしょう。
中学卒業、高校卒業の節目の時には当時のお友達の事を考えるそうです。
生きていたらどこの高校にいったのかな?
頭がよかったのかな?
でも震災の事があり長いお付き合いの友人はいなく幼稚園時代の同級生がいたりするお友達がうらやましかったそうです。
震災で家族やお友達、多くの周りの方を失いあまりのショックでもあったでしょうし、また奇跡の子として前向きに生きなければというものを背負ったまま子供らしいわがままやイタズラなどが出来なかった感情の起伏が大人になっての葛藤になっているのかもしれません。
「ビデオは震災の4~5年前のものなので、震災当時の声とは違います。家のあった場所に行っても思い出せないのと同じようなもの。思い出せないのは悲しいけど、忘れることも必要だと思う。アルバムをめくったときに思い出せればいい」
忘れていけないものは沢山ありますが、報道でも忘れてはいけないとして毎年放送されていますが、辛く悲しい気持ちを抱えたままその状態のまま生きていくのはあまりに酷すぎます。
もしかすると常に震災を忘れずにいようとするあまりに、亡くなった家族やお友達の事を考えると心から楽しんだり、笑ったりすることがいけないんじゃないかって出来なくなる可能性だってあります。
忘れる事も大事な防衛本能だと思います。
『目標を失った』その真実の詳細は番組終了後にわかるかと思いますので追記したいと思います。
てっちゃん【只野哲也】大川小裁判の現在は?ノンフィクション
大川小はいつも地域の中心だった
僕は「ここに生まれて本当に幸せだ」と思っていた。しかし、震災により私たちのふるさと、友だち、先生方、大好きだった地域の方々がたくさん亡くなった。こんな思いを二度と他の人に味わってほしくない
そう思いから哲也さんは校舎の保存を望んだそうです。
最初は大人に批判されながらも、に大川小学校出身の先輩たちが協力してくれ賛同してくれる人達がでてきて2016年2月に校舎の保存が決まったそうです。
受験の中、一生懸命意見を出し保存が決まり3~4年後、話しあいに呼ばれた市側に聞かれたことはひとつだけだったそうです。
大川小学校は今、震災遺構としての整備が進められ、来月にも開館する予定だ。校舎は修復せず、現状のまま残す。学校に隣接するかつての住宅地で、避難途中の児童の多くが津波に襲われた。その一部を植林し、「鎮魂の森」にする。校舎の周りには芝生を敷き、「追悼の広場」や「想起の広場」をつくり、施設の入り口は桜並木にする計画だ。
原告遺族は、コーティング加工などをして、現状のままの状態を保存することを希望し、子どもたちの遺品や裁判の記録を展示してほしいと望んでいるそうですが、石巻市は「修復せず現状のまま残す」としているそうです。
また避難についても数多くの賛否両論があり裁判となりました。
お子さんを失った原告遺族は2014年3月10日、仙台地裁に石巻市と宮城県を相手取り、国賠訴訟をし、学校の責任を問う裁判が起こされ、2019年10月10日、原告ら遺族の勝訴が確定したそうです。
てっちゃん【只野哲也】が大川小の奇跡の子として避難できたのは?
大川小のある地域は震度6弱で5年生は『さようなら』をいう前に地震がおきたそうです。
校庭に避難をし並らび約50分にわたり先生達は避難方針を決めかねていたそうです。
その後避難開始で(河川堤防の近くの)三角地帯に行きますという指示にしがい移動直後に砂煙がパーッと上がるように波がこぼれたそうです。
てっちゃん『哲也さん』は祖父に『地震が来たら、山さ逃げろよ』と口癖のように言われていたのですぐに走って山に登ろうとし、3~4メートルほど登ったそうです。
その後首に何かがあたり気絶をしたものの山の斜面で体が半分ほど土砂に埋まった状態で救出されたそうです。
裁判では何故山に避難しなかったのかも問われたようです。
裁判となれば4人ほどの生存児童に状況を何度も問われたかと思います。
子供の頃であればただ正直に見たことを話すことに抵抗がなかったでしょうが、大人になってくれば自分の発言の重さで人が裁かれる事にもなります。
哲也さんはそれから奇跡の子として小学校5年生から、沢山のプレッシャーをも背負って生きてこられたのでしょう。
当時の事を風化させない為にも自らガイドとして50回以上案内をされたそうですが、小学校前でピースをしながら写真をとる姿を見ると震災に対しての同世代とのギャップを感じてしまわれるかと思います。
失ったものの大きさや背負ったものの大きさが違いすぎて苦しくなられ葛藤もあったかと思います。
目標を失ったというよりは初めて自分の感情を許す時が来たのかもしれません。
穏やかに日々送られることを願っています。